"好き"の力信じて

"好き"の話をします。ラブライブ!、石原夏織、アニメなど。

Animelo Summer Live 2019-STORY-感想 「白」のRay Rule

アニサマ2019の1日目と2日目に参加したのでその感想を。アニメロサマーライブ、ドワンゴでCMやってた頃から知ってるのに、参加したのは初めてでした。楽しかったですね。個人的にはですが1日目が神でした。おまけ程度に他も書いてますが、ほとんど石原夏織さんの話です。

石原夏織

☆前日のツイート

☆当日のツイート



...1曲目がまさかの「Ray Rule」でしたね。2ndシングルの表題曲とはいえ、むちゃくちゃ驚きました。
アニメタイアップがついててちゃんと盛り上がるべきところを抑えられてる「Sunny You」でしょ〜しか思っていなかったので、ムービーが青くてまず「え、まさかUntitle Puzzle*1??」と思ったし、「Ray Rule」のイントロが流れた時の高揚感と言ったら。。


石原夏織 1st LIVE「Sunny Spot Story」Blu-ray&DVD 「Ray Rule」short ver.

↑イントロがかっこよすぎる。こんなのがデビューシングル「Blooming Flower」の次のシングルです!って発表されたら度肝抜かれるよね。是非聞いてください。ちなみにアニサマはほぼこの映像の演出でした。

はじめに

前々からキャリさんでは「Ray Rule」が一番好き〜!!!と主張しているのですごく嬉しかったです。
フェスの選曲としてはTEMPESTとの流れでいけばダンスパフォーマンス色の強い2曲をやるということで、声優アーティスト・石原夏織はそういう方向で打ち出したいのだなと感じました。勿論パフォーマンスも最高だった。だけど、少しペンライトの色でモヤモヤしてしまいました。

石原夏織さんのアニサマは「ゆいかおり」時代から数えると2016年以来3年ぶりで、「石原夏織」ソロ名義としては、初の出演。
つまり、初登場とはいっても「帰ってきた」という側面があると同時に「新しい門出」という側面もあるわけです。

ゆいかおり時代の石原夏織さんのイメージカラーといえばでしょう。
ええ、その通り、会場は真っ青でした。

しかし、石原夏織さんのデビューから今を見てきた僕としてはこれに正直言うと(しょうがないとは思いつつも)悔しい気持ちがありました

何故白が良かったのか?
むしろ、青で悔しいのか?
Ray Ruleとはどんな曲か?という話からしたいと思います。
まあ、めんどくさいオタクの話です。

Ray Ruleとこれまでの石原夏織

ゆいかおり時代はざっくり言えば(当時ファンではないので、推測でしかないですが)、小倉唯さんがキュート担当で石原夏織さんがクール担当(実際のキャラクターはともかく、歌で言えば少なくともそう)だったのでしょう。
ソロでやる意義はユニットの自分の担当部分(ここで言うとクール的な部分)を強めるというのもあるのでしょう。
Ray Ruleは石原夏織は2ndシングルで、1stシングル「Blooming Flower」は始まり爽やかさや始まりがイメージの曲調だったのに対し、カッコイイ石原夏織を前面に出した曲でした。

ファーストシングルが爽やかな曲だったので、今回はカッコイイ曲をやりたいと思いました。それで様々なクリエーターさんに、"石原夏織が歌うカッコイイ曲"をお願いしたんです。そのなかでわたしがもっとも"石原夏織が歌わなさそう"と思った曲が『Ray Rule』でした。
VOICE Channel VOL.4より


上のボイチャンのインタビューではRay Ruleは石原夏織が歌わなさそうな曲を選んだというように、前のイメージを打破するような意味合いがあったように思います。イントロをはじめとした音楽、意志を感じる歌い方、ダンスどれをとっても「かっこよさ」を前面に出しており、どちらかといえばかわいい感じのアイドルユニットであった「ゆいかおり」に対するアンチテーゼ、まさに「ソロの石原夏織」でしかできないことだったように思います。当時の自分も「ソロの石原夏織」がしっくり来たのはこの2nd シングルの時でした。

この後発売した1stアルバム「Sunny Spot」のリード曲のかっこいい感じのダンスナンバーである「Singularity Point」では「いつもの自分から外れて、自分を変えろ!」というメッセージがあったり、声優アーティスト・石原夏織のこれまでのコンセプトは「これまでの自分ではない、新しい自分」であったように思えます。

そもそも、今までのシングル、リード曲で純粋な青色ってないんですよね。
Blooming flower→/
Ray Rule→白
Singularity Point→
TEMPEST→
青なのは1stシングルのカップリング「Untitle Puzzle」と2ndシングルのカップリング「半透明の世界で」だけなんですよね。むしろ青を避けているきらいがあるとまで私は思っています*2

(これは愚痴のようなものです)
だから、1st LIVEの時、観客で縦5つに分けて虹を作るMCがあって、その後に「色づく世界の明日から」のOP「17才」をカバーするというシーンがあったのですが、この虹を作るMCが終わった瞬間に自分の担当カラーやめて青にする人が目立ったのは「なんだかなぁ…」と思ってしまっていました。


「新しい今の石原夏織を見せたい」、1ファンの妄想でしかないですが、これが前回のアニサマから今回のアニサマまでの"物語"だったのかなと。

そこで重要なのがペンライトの存在です。

ペンライトをなぜ振るのか?

我々はそもそも何故なんのためにペンライトを振るのでしょう?

端的に言えば、自分は意思表示だと思っています。
複数人がいるアイドルライブにおいては「推しのカラー」を振るというのは、その推しが好きだという意思表示です。
観客が思い思いの色を振って結果的に「色とりどりの光の景色」となります。
それだけではなく、その曲のセンターの色を振るというパターンもあります。

じゃあ単独アーティストにおいて色を振る意味は何ではしょうか?どちらかと言えば、センター曲に振る場合と同じでその楽曲の世界観に共感し、歌を支える背景として彩るということなのであろうと思います。

今回の「Ray Rule」の話でいえば、アニメロサマーライブという新たな門出を新しい自分(⇔ゆいかおり)として打ち出すことに意味があったのだ思っています。

だからこそ、「白」を振ることは今の石原夏織を示す意味合いがあるのです。
だから「新しい石原夏織」と真逆の方向である青一面に染まった時ははっきり言ってがっかりしました。そんなに過去を見ているのかと。

僕は「新しい石原夏織」をどうせなら「白」で迎えて欲しかった。本当にただそれだけですなのですが。

勿論、「あんな青っぽい演出で白振れなんて分かるわけないだろ」というのは承知してます。
初見では難しいし、アウェーの場なこともわかってるし、本当にただの「気持ち」でしかありません。

ただ、それでも少し悔しい。
「今」の石原夏織を見て欲しい。
だから僕はこうやって筆を取りました。
もしこのブログを読んだ方が今後「Ray Rule」をどこかのフェスやライブで聴く機会があれば「偏屈でめんどくさいオタクが白と言ってたなあ...」って思いながら白を振ってくれると嬉しいなと思いますね。

とはいえ、みんなに認知してもらうのはよほどの有名曲じゃないと難しいから、「サクラ」というか先導するファンの存在も重要で、自信満々に白振るファンがたくさんいたら「あ、これ白なんだ〜」と思うわけです。
実際、「TEMPEST」は真っ赤になってたし。なのでファンのみんなも頑張りましょう。

ところで、Twitterにも書いたのですが、二つ隣のAqoursのブレード持ってたオタクが石原夏織のRay Ruleのダンスの動きとムービーが一致してて演出が凄かった!!」と話をしてたのがとても嬉しかった。
片や、多分隣のRoseliaのオタクは僕のRay Ruleでのテンションの上がりっぷりにドン引きだったでしょう。ごめんなさい...。

その他

いや、この人曲の感想全く書いてないじゃん…。

☆TEMPEST
前週のイベントでピッチが不安定だったので、大丈夫か?と思っていました。最初の「目を覚ませ〜」の音が違うくて「これはやばいぞ」と思ったんですが、それ以外はかなりいい感じでした。
事故みたいなものだろうししょうがないんだけど、なんで最初だけ外したんだ...、マジでドキドキした。
TRY UNITE!
この前の週半分冗談で知り合いに「まめぐいるし、TRY UNITE!来るんすかねー?」と言ってたら本当に来てビックリしましたね。ん、聞いたことあるイントロだぞ、からのこれでした。
☆ファッとして桃源郷
最初みもりんの隣がキャリさんって認識できなくてびっくりしました。近藤うどんこってこんな声だっけ?って考えてたら曲が終わってた。結局思い出せてない。

逢田梨香子

あんまり書くことはないんですが、誕生日イベントでも一番安定感があったし「ORDINARY LOVE」でしたね。アニメタイアップこれだけですし。

前イベントの昼の歌に近い感じでBメロ頭(「太陽みたいな〜」)からロングトーン(「流れる〜」)にクレシェンドがかかり、圧巻でした。
良かった良かった。
逢田さんには気持ちが入りすぎてしまうし、ノリノリな曲でもないから普通に聴きながら泣いてましたね。
自分の席がアリーナの一番後ろだったので後ろから出てきてくれて嬉しかった。近かった。

あと「逢田梨香子でした」とお辞儀したあとの最後の拍手があまりに温かく感じられました。こんな温かい拍手があるんだなって。

Aqours

書きます?書かなくてよくない?
一言でいうなら今回のコンセプトである「STORY」に合わせる必要はなかったかなぁと思います。今回見せたAqoursの「STORY」は少なくともアニサマというフェスで見せるべきAqoursの「STORY」ではなかったように感じました。

その前のTrysailとかSTORY要素はぶっちゃけなかったけどとても良かったじゃないですか。本当にただ盛り上がる曲3曲入れただけだけど(僕は詳しくないですけど、「オリジナル。」みたいな聞かせるタイプの曲もあり得るのに)、僕はむちゃくちゃ楽しかったです。

何故こんな批判的なことを書くかというとまず、僕がAqoursにものすごく期待しているからですね。期待して信じてるからこそ物足りなかったら批判はします。
嫌いだからじゃなくて、むしろ好きだから批判します。

あとフェスという場でAqoursのことを知らない人に誤解して帰って欲しくないからです。
フェスに例えばAqours目当てで行って初めて見るアーティストとかいるじゃないですか。で、この人良かったな〜とかこの曲良かったな〜とかあるじゃないですか。今回の自分だったら畠中佑さんとかそうでしたね。そしたらその時の印象が強く残るじゃないですか。それであの時アニサマで見た人だ〜となる訳。
そういう初めて見た人に「良かったな~」じゃなくて「よく分かんなかったな〜」と思わせるステージはフェスとしては成功とはいい難いと思います。そういう風に思われて帰られるのは本当にもったいない。


今回のセトリはAqoursのオタクじゃない人にとって、初めて見るステージとしては前提が足らなすぎたと思います。
4th day1の「想いよひとつになれ」を見たとき、ファンですら意味を理解するのに時間がかかったというのにいわんやファンではない人をや。

しかし、逢田梨香子さんのインスタであったんですけど、「想いよひとつになれ」はどうやらアニサマのプロデューサーさいとーPからのお願いだったということなのでAqours陣営を100%批判するものでもないというのは付け加えておきます。

ま、来年は未体験HORIZONとDeep Resonanceでアニサマに来たオタク(自分を含む)を全員ブチ上がり骨抜きにするから見てろよ〜(フェスくらいはそういう曲にしてほしいというのが本音です)

共演

今回のアニサマはこれに尽きますね。



https://ameblo.jp/ishiharakaori-0806/entry-12516270313.html

...いや、マジで嬉しいです。ただそれだけです。やはりほとんど現場で会ったことないんですね。
全く違うところから好きになった二人がこうやって交わる瞬間を見れたのは嬉しいなと。年齢も誕生日も近いし、仲良くしてもらえると良いなあって。

アニサマ、楽しかったです。自分の推しが全員出るなんて贅沢ですね。来年も推しが出れるよう応援していく所存です。

*1:1stシングルのカップリング

*2:余談ですが、私はこういう考え方なので「Blooming Flower」では黄色を振る時が多いです。2本持ってたら青も振るけど。

WATER BLUE NEW WORLD〜叶わなくても、"変わる"〜



はい、こんばんはあしかです。
今回はAqoursで好きな曲No.1である「WATER BLUE NEW WORLD」の話です。

まず、関係あるようでない話ですが、この曲をタイトルにした以下の記事が(自分としては)反響が大きかったのは結構嬉しかったです。

ashikaouou.hatenadiary.jp

上の記事はラブライブ!サンシャイン!!がきっかけで転職しました!みたいな話なので、ここからの話を読むにあたっては特に読む必要はないのですが(いや、読んで欲しい気持ちは勿論あるけれど、「お前の自分語りなんか興味ねえ!」という方は別に読まなくてもこの記事を読むことはできるという意味です。まず長いし…)、この記事で1つだけ誤解を生むかな~と思ったところがありまして、それが記事のタイトルなんですよね。

「動けば変わる」というのは最初に挙げた「WATER BLUE NEW WORLD」の歌詞の一部なのですが、この部分における"変わる"のニュアンスと先の記事のそれがちょっと違うかなとずっと思っていて、折角だし「WATER BLUE NEW WORLD」の話をさせていただこうと思います。

"変わる"の3文字

「WATER BLUE NEW WORLD」という曲には評価すべきポイントがいくつかあるのですが*1、今回取り上げるのは歌詞。しかもたったの二行です。

「諦めない!」言うだけでは叶わない
「動け!」動けば変わるんだと知ったよ
「WATER BLUE NEW WORLD」より


たったの二行の言葉ですが、この二行にあまりに色々な意味が詰まっています。
どんな意味を持つのかを考えるにあたってこの二行を以下の図の通り分解してみます。 f:id:ashika_ouou:20190702235032j:plain

図の通りですが、この歌詞を分解すると一行目と二行目は対となっています。

①「諦めない!」⇔「動け!」
②言う(だけ)⇔動く
③叶わない⇔変わる

の3つの対となることを「知ったよ」と読むことができます。

この二行の歌詞の中でとても"Aqoursらしく重要な言葉"があって、それが"変わる"(③の部分)です。

"叶わない"という言葉の対比であるならば、"叶わない"の否定である"叶う"の方が自然なんじゃないかとさえ思います。
更にテクニカルな話をすれば、この"変わる"という3文字は、同じ3文字である"叶う"に出来るはずなんです。
つまり、歌詞のリズムの都合でしょうがなく…とかそういう理由ではないのでしょう。

敢えて"変わる"なんです。
じゃあ何故"変わる"なのか?
凄く単純な話で、あくまで"叶うかどうか"を保証していないから。
でも、間違いなく"変わる"ということは肯定しているからです。

実際に(映画にもあったように)「一番叶えたかった願い」はアニメにおいて叶っていません。
だから、彼女たちがもし"叶う"と言ってもその言葉には説得力がありません
そもそも、彼女たちがこの「WATER BLUE NEW WORLD」で伝えたいことってきっと夢が叶うか/叶わないかじゃない
動くことで"叶う人"もいるかもしれないけれど、どうしても"叶わない"人だってたくさんいる
彼女たちがそうであったように、叶わなくても"変わった"と思える。
動いた過程は必ず何かの糧になって、"叶う人"も"叶わない人"も皆動く前とは変わっている
"変わるかどうか"は自分の認識によって決まるもので、変わったと自分を納得させるために行動するのだということ。
この"変わる"にはそんな意味が内包されているのかなと思います。

おわりに

Q.なんで"変わる"を使っているの?

A."叶う"は事実に基づくけど、"変わる"は認識に基づくから。(この言い方だと"叶うかどうか"はまるで全て事実に基づくようで一般化しすぎな感じは否めないですが、この文脈上の"叶う"においては廃校を阻止できるか否かなので事実に基づくものと解しています)

"叶う"じゃなくて敢えて"変わる"を使うというのは「ラブライブ!サンシャイン!!」のコンセプトである(と勝手に思っている)「一般性」*2を損なわない言葉で絶妙なバランスを保っています。だから、その点が言葉選びが巧みだなあと感じています。そしてすごく好きな点です。

という訳で、くどいですが、先の記事のどこが誤解かというと、『「動けば変わる」から動いて転職しました!』はこの曲の本旨ではなく、『結果にかかわらず動いた過程によって「動けば変わる」のだ』ということ、つまり変わることが必ずしも結果を出したことを表さないはずなんですよね。
これを使いたかったからあのタイトルにしたはずのに、なぜか本文では使われてないんですよね...。

私がこの1年生きる上で、最も勇気を与えられた言葉でした。
「イマ」を生きるための大切な言葉。
この先もずっと忘れられない言葉になるのでしょう。
いや、「イマ」の気持ちを刻むために記すのです。
「ミライ」へ向かうために。

*1:「夢は夢のようで~」の部分の歌詞や「夢が見たい思いや~」などの歌詞だけでなく、目まぐるしく変わる曲調が「駆け抜けてきた素晴らしい日々」を歌っていることなど...

*2:「WONDERFUL STORIES」で千歌の物語の締めくくりを「みんな持ってた」と歌うように

映画「天気の子」感想(ネタバレあり)

※ネタバレをします。視聴していない方は視聴後に読むことを推奨します。
※筆者が見た新海誠監督の過去作品は「言の葉の庭」「君の名は。」のみです。

先々週「天気の子」を見てきた。とても良かった。
君の名は。」はそこまで好きではなかった(むしろその後に見た「言の葉の庭」が良すぎて驚いた)から特に期待はしていなかったし、序盤はふ〜んと思って見ていたのだが、中盤以降はその世界観に引きこまれていった。

何が良かったんだろう?というのを自分の中で3点に分けて整理してみた。

1.ふたりの世界

陽菜と帆高はふたりの世界を見出した。

まず陽菜サイドから見ていこう。
多分、彼女にとってマクドナルドの仕事は価値がないもので、働く意味を見出せなかったのだろうと思う。*1

それでも働くのは凪を守らなければならない、自分が凪を守らなければならないという陽菜の「大人の顔」なのだろう。
陽菜がマクドナルドで働く姿、お金を求めて水商売に行く姿は仕事に生きるため以上の意味を考えられない大人への皮肉かもしれない。

しかし、そんな陽菜は帆高と出会うことで変化があった。
「晴れ女」という当初オカルトでしかなかった存在に価値・意味を見出し、信じたのは帆高だった。
自分の意味を見出せたからこそ、「晴れ女」という仕事が楽しかったのだと陽菜は語っていた。
その点、帆高にうさんくさいオカルト・非科学的なものに携わる仕事をやらせたのはとてもよくできているなと思う。

帆高からみたらどうだろうか。 帆高は当初、生活費を稼ぐための陽菜が生活費を稼ぐための手伝いをしたかっただけだった。
「晴れ女」という仕事をしたことで楽しさを見出したのは帆高も同じだった。

「明日の天気が晴れてほしいか?」と陽菜は消える前に問う。
当初正しく答えられなかったこの問に対して帆高が正しく答えることが出来た時、帆高にとって陽菜は特別だと分かった
もはや帆高にとって陽菜の存在理由は「晴れ女」だからじゃない。彼にとってただ必要、特別だからだ
帆高と陽菜だけの世界は、大多数の人間が存在する世界ではなく、二人だけの世界だ。

個人的にはラブコメディ*2において条件が外れる(無条件の愛になる)瞬間がとても好きで、「天気の子」はその点をよく描けているなと感じた。ラブコメディ的な面でも質が高い。

2.「晴れ女」の代償

しかし、「晴れ女」とが晴れを祈る行為は、世界を晴れにし、人を笑顔にし、帆高と出会えてといいことずくめ…という訳ではなかった。
「晴れ女」が無理やり世界を晴れにする行為は、世界のメカニズムに歪みをもたらしていた。
最初、帆高が船の上で落ちそうになるシーンや急に男子高校生の目の前で水が落ちてくるシーンの通り、晴れた分どこかで雨が降ってくる。
「晴れ女」が祈るという行為は、自分の周りを晴れさせることはできるが、その代償としてどこかで強い雨を降らせる。

そして、晴れ女には「運命」がある。晴れ女は天気を晴れにする代償として、世界を晴れにするために消える。

雨を止めるためには、晴れ女が生贄になるしかない。
それは雨が降るのと同じ「定め」である。世界の晴れか陽菜という一人の女かの二択を迫られていた。

帆高は陽菜を選んだ。理由は単純で、世界の晴れ"なんか"より陽菜が大事だから。 この世界のメカニズムを理解しているのは帆高だけである。*3
世界を背負いながら、その選択を責めるものは帆高しかいない。
実際に帆高が捕まって陽菜の行方を聞かれた時、「晴れ女」のメカニズムによって陽菜が消えたことを説明した。
しかし、「大人」そして力の象徴である警察はその説明には意にも介さず、むしろ精神鑑定が必要かもしれないと述べていた。

天気の子が面白いなと、この作品のとてもいいところだなと思ったところの一つがこの代償だった。
「晴れ女」の行った行為は決して世の中をよくすることではなかった。自分の目に見える周りだけだ。
マクロに見れば自分の見えない場所では歪みが生じ、必ずデメリットが生まれている。
世界の誰かが幸せになるということは世界の誰かが不幸になるかもしれないということ。
そんなリアリティを感じて面白いと思った。

3.因果と選択

エピローグ。

さて、帆高は陽菜を選び、世界を捨てた。本来晴れの生贄になるはずだった陽菜を救ってしまった。
その代償として、雨が降り注ぎ東京は沈み、変わってしまった。
東京が沈んだのは自分の選択が原因だと、東京が沈んだことと晴れ女には因果関係がある、帆高は思った。

…本当にそうなのだろうか?
そう疑問を呈するのは、須賀であった。
世界は最初から狂っていた。だからこうなるのも当たり前なのだ。そう彼は言った。
富美だって沈んだ故郷を見て数百年前の江戸を引き合いに出して、東京は元々は海だったのだと受け入れている。
「運め」とみなして理不尽な世界でも受け入れる。それがこの作品における「大人」のあり方だろう。
その意味において、3年後の世界を描いたエピローグの須賀は良くも悪くも「つまらない大人」になっていた。

確かに、因果関係の成立を判定するのはとても難しい。

昔話ならば悪役を倒して世界に平和が戻るけれど、現実世界はそんなにシンプルじゃないことを皆が身に沁みて知っている。
新海誠監督インタビューより


新海監督の言葉を借りるなら、結果の原因を一つに定められるほど世界はシンプルじゃないのだ。

例えば、地球温暖化
本当に二酸化炭素のせいと断言できるのだろうか?
地球温暖化には今は周期的に気温が上がっているだけで二酸化炭素は関係ないという意見もある。

そもそも温暖化しているのか?ということにすら疑問を抱くものもいる。
神社のおじいちゃんが話していたように、人間が気温を観測して最高/最低気温などの気象データを収集したのはわずか100年かそれくらい。地球の歴史は46億年あると言われているのに100年の観測史上最高/最低気温と言われても46億年の中でどうなのかは分からない。そんな短いサンプルでは普通も何も分からない。そもそも普通って何?

私は地球温暖化の話がしたかった訳ではなく、これだけメジャーで多くの人が信じているであろう地球温暖化という一般論ですら異を唱えるような意見があるのだ。
だから、沈んだ世界にも様々な見解があるのだろう。
世界が沈んだ要因は必ずしも帆高が「晴れ女」を救ってしまったからだとは限らないのだ。
「晴れ女」の存在はそもそも「世界」にとっては「オカルト」だから誰も信じてはいない。
そのことは先ほどの警察の話でもそうだ。「大人」に「晴れ女」の話しても責任能力のない人間*4だと思われるだけだ。

そんな話を聞くうちに、帆高は大人から否定された自分が見出した因果関係を信じきれなくなっていた。

因果をあっさり否定され、自分達の選択の意義を考え直す帆高。 もしかすると自分が「大人」にあらがってまで救った「晴れ女」には意味はないのかもしれない。
自分の選択と東京が沈んだことに因果関係はないのかもしれない。

3年間会ってない陽菜に対してなんて声をかけよう、「君のせいじゃない」と声をかけようかな。
迷いながら最寄り駅を降りて陽菜の家までの途中に出会ったのは天気に向かって祈る陽菜だった。

だから大丈夫だと。

…物語はここで終わっている。
陽菜がなぜ祈っていたのか?
習慣なのか?それとも、帆高が来るからなのか?何なのかは私には一瞬読み取れなかった。

だけど、祈る姿を見て帆高の迷いはなくなった。
少なくとも帆高は「大丈夫」と保証したいと思ったのだ。

取るに足らない 小さな僕の 有り余る今の 大きな夢は
君の「大丈夫」になりたい 「大丈夫になりたい」
君を大丈夫にしたいんじゃない 君にとっての「大丈夫」になりたい
RADWINPS「大丈夫」

最後に流れるこの「大丈夫」の歌詞でいう「大丈夫」というのは君に対する肯定のことなのだと思う。

この肯定は他者から見たらとても醜く悲劇のヒロインぶっていてダサくて、青臭いし妄想でしかない無意味なのかもしれない。 でも、二人にとってそのダサくて無意味なことにこそ意味があるのだと思う。
外の世界の影響を受けず、その意味を見出すのも自分である。
自分が世界を沈めてしまった、そう考えるのは非常に重い。
誰にも責められることなく自分が「世界」の責任を負っている。
とても苦しいし決して賢くはない。
だけど、自分達のやってきたこと、出会いをなかったことにしないため、この苦しい選択をするのだと思う。

やりたかったのは、少年が自分自身で狂った世界を選び取る話。
新海誠監督インタビューより


4.おわりに

「天気の子」について3つの観点から述べた。
ファンタジーなのに所々が妙にリアルで、結末は全くもって世界のハッピーエンドではない。だけど、二人の中に残るのは抗いの証。天気に祈ることを忘れてはいなかった。
だからこそ帆高の選択が映えるのだと思う。

君の名は。」が社会現象となったから、適当に感動して映像で殴る感じの全年齢層狙いのハートフルラブストーリーにしてやろうとかそういうのだったら嫌だなあと思っていた(こんなことを1mmでも思ったバカは私だけかもしれない、こいつ分かってねえな…)。

むしろ蓋を開けてみれば、舞台が新宿歌舞伎町だったり最後の舞台が池袋のラブホテルに未成年で泊まったりとインモラルで小学生には厳しくない?という内容だった(それでも、過去作品のファンから見れば新海誠が一般受けを狙っているという見解もあるらしい。)*5

この作品について述べている時、何度か「大人」と「子供」という言葉を使った。本作品の根底にある考え方はそういうところにあると思っている。
「子供」という言葉には社会(の常識)を理解しておらず、それゆえ「社会」に抵抗し自己中心的な行動をとる。そんなニュアンスなのだろうと思う。

帆高と真に対立する価値観があるんだとしたら、それは社会の常識や最大多数の幸福なんじゃないか。
新海誠監督インタビューより


君の名は。」という「社会」で大ヒットを生んだ作品の後に出てきたこの「天気の子」という作品は、「天気」のような巨大でどうしようもない「社会」へのささやかな抗いだと感じる。
きっと「天気の子」での東京の惨状と同じで完全に抗いきるのは不可能だろう。だけどその爪痕を残すことには意味があるのだと思う。

『天気の子』という作品の何がいちばんのオリジナルかというと、それは物語のセオリーから外れた(のかもしれない)物語を、夏休み興業の映画でやることだと思っています。
新海誠監督インタビューより


作品には大なり小なり生まれる文脈が存在する。「天気の子」でいえば、「君の名は。」という大ヒット作品の後であり、どうやっても『「君の名は。」が、大ヒットした新海誠監督の最新作』と言われてしまう(「君の名は。」の後の作品という意味では誰でも見うると思います) 。

社会に抗うことを選ぶ物語を夏休み興業の映画としてやること、社会における「天気の子」の文脈を踏まえてやっているのだから非常に計算高く、面白いなと感じられた。

新海誠監督、素晴らしい作品をありがとうごさいました。

*1:この部分に関しては、正直言うと分かりません。なぜなら陽菜の過去がどうだったかはあまりに描かれていないから。陽菜の過去が描かれていないのは彼女の変化を見るに当たっての情報が不足していると捉えています。多分そうだろうとは思いますが、個人的にはこの裏付けは欲しかったなあと思います。あまり作品の批判をする気はないのだけれど、今のところの唯一の不満点です。もし裏付けがあったらごめんなさい

*2:天気の子は厳密にはラブコメディではないのですが…

*3:と思ったが、夏美や凪は本当に理解してないの?という疑問はありますね?

*4:精神鑑定を行うのは刑事訴訟上の責任能力・訴訟能力を問うためにあります

*5:まあ「君の名は。」も別にインモラルではないとは言えないのだけど…。

7月8日 マリンメッセ福岡

2018年7月8日12時。私は飛行機で福岡に移動していた。
Aqours 3rd LIVE TOUR福岡公演Day2、福岡公演の千秋楽に参加するためだ。

当日は13時過ぎに福岡空港に着き、博多ラーメンだけ食べてギリギリで開演に間に合った。

そして始まる3rd LIVE TOUR千秋楽。

公演前

私は「ラブライブ!」(無印)シリーズから好きだった。2期直前あたりからのファンだ。
だけど、μ'sに会うことは最後まで叶わなかった。5th/Finalとライブに行くためのチャンスはあったけど全部落ちた。ファンミは申し込みすらしなかった(ミミミのCD持ってるのにね…)。

μ'sがFinalライブを迎えてから会えなかった無念の気持ちに満ちていた。
そこで、その穴を埋めるために割と色々な物に手を出した。
だけど、μ'sを失ったことを満たしてくれる「何か」はなかった
Aqoursもその手を出した色々な物のうちの一つであった。
1期は「青ジャン」「ユメユメ」のCDは買っていたしむしろ期待していた。だけど、1期の最終話まで見て特段μ'sのような価値を感じられず(むしろ当時は理解不足故に13話なんてクソだろと思っていた(注:今は思ってないです))、他界した*1

2期で大分好きなアニメにはなったものの特別な作品とまではいかなかった。

今や考えられない話だが、当初私が3rd 埼玉に行った理由の一つに「μ'sの代わり」を求めて臨んだという側面があったことははっきりいって否定できない。

いや、Day1の「MIRACLE WAVE」で伊波杏樹さんが跳んだ時本当に感動したのは事実だし、12.5話も凄く良かった。3rd埼玉でライブ楽しかったなあ4thも行きたいなあと思ったのも事実だ。
だけど、いまだに自分が「μ'sのような何か」を探していたのもまた事実であった。

そんな私に何の因果があったのか、大学から仲のいい友人にラブライブ!(無印)を勧めたらドハマりし、そのままAqoursにハマった友人が福岡公演のチケットを用意してくれていた。

公演本番

開演時のキャラクター紹介での「起こそうキセキを!」を聞いた時だった。

恥ずかしながら劇伴にものすごく無頓着であったため、この時この曲が「キセキヒカル」の元となる曲だと初めて知ったのだ。

ファンにとっては常識だろ?え、お前は何を聞いていたんだ?
その通りで、自分は正直この時まではファンに満たない存在だったのかもしれない。

「起こそうキセキを!」を聞いた時のカタルシスは物凄く、自分の無頓着さはその意味でものすごく得であった。
「起こそうキセキを!」、幕間で流れるメロディー。全て「キセキヒカル」だった。幕間を聞いていくうちに、自分の中で"Aqours"の見方が変わり始めた

最初のMC巻き気味だなとか、「DROP OUT!?」披露された!!おお~とか思っていたら12.5話の幕間が流れ埼玉と同じ「青空Jumping Heart」が流れた。埼玉だとこれで終わりだったし最後の曲なんだろうな~と思った。

青空Jumping Heart」が終わり、「ありがとうございました~」と言うAqours
しかし、Aqoursははけなかった。

間を空けずに幕間で何度も流れていたメロディーが流れ始めた。
「キセキヒカル」だ。

この曲が流れた時、自分の中で衝撃が走った
そして「あぁ、埼玉をスタートとして福岡が完全版のゴールなんだ。だから"LIVE TOUR"なんだ」と理解できた。
その集大成としてAqoursの軌跡」を歌った曲を最後の最後に歌うのかと。
ああ、なんて綺麗なライブなんだと。

1年前、自分は福岡公演の感想としてこのように述べている。

ただ、曲とアニメの融合したライブを見せるのではなく「キセキヒカル」という曲を千秋楽に出すことで、休憩時間のような幕間にすら、文脈をつけてしまう。もはやこれはライブだけでもアニメだけだけでも楽曲でもない全てが有機的に繋がっている芸術作品だなと感じました。


私がラブライブ!サンシャイン!!のライブに感じている、求めていることってこういうことなんだと思う。
ライブはアニメとは不可分な存在で、だけどアニメそのものではない。アニメが不完全という訳ではないが、ライブによって現実のキャストがアニメや「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品のメッセージを補強する
埼玉と変わったのはたったの4曲(「DROP OUT!?」、「キセキヒカル」の追加、「Landing action Yeah!!」→「ホップ・ステップ・ワーイ!」、「勇気はどこに?君の胸に!」が普通Ver→合唱Ver)。
「ホップ・ステップ・ワーイ!」の選曲はAqours CLUB 2018に移行したからだと解すると、たったの3曲しか変わっていない。けれども、その3つの欠けていたピースが埋まることで3rd liveは"芸術作品"として完成されたんだと思う。

この「キセキヒカル」を聞いたとき、私の中でAqoursはμ'sの代わりではなくてAqoursという特別な存在になった
2年越しに自分の中の"呪い"から解放されたような気分だった。

そしてきんちゃんがMCで願っていたように「Aqoursが居場所になった」瞬間だった。

ラブライブ!シリーズだからとかそうじゃなくて、Aqoursが本気で好きになった。

それから

「動いてないと探せない」

キセキヒカルではそう歌われている。
「自分も動かなきゃだめだ。」
福岡公演が終わった後、何かをしたくて、普段本なんて読まないのに一冊の本を手にした。

何かをやるのに遅いということは決してない。 自分を進化させる53の方法

何かをやるのに遅いということは決してない。 自分を進化させる53の方法

この本の概要は以下の通り。
18歳からサッカーを始めた筆者が名門大学でサッカー部への入部を拒否される。だけど、あがいてあがいてアルゼンチンで練習生となり、選手としてキャリアは短いもののプロ選手となれ、アジア人初の女子サッカー一部リーグの監督になった。そして最終的には本田圭佑の専属分析官にまでなった。

普通サッカー選手って(メジャーなスポーツはそうだと思うが)小学生から初めて、中学~高校生で名門校に入って、その功績が認められて大学に推薦で行ったりするのだろう。
でも彼が始めたのは大学から。だから、当然のように所謂「普通のサッカー選手」にはなれなかった。
だけど、あがいた結果が評価されサッカーに関わる仕事を続けることが出来ている。

望み通りに夢は叶わない。人生なんてそんなものだろう。
だけど、叶わないからといって遅すぎるから諦めるのだろうか?そもそも遅すぎるってなんだ?明確な期限は存在するのか?

サッカーに限らず、アスリートがプロ選手としてやっていける確率はごくわずか。
それは自分でもわかっている。
でも僕は、自分のやりたいことを、自分の人生を、確率だけで選びたくはなかった。
本田圭佑選手の専属分析官がとった意外な選択。キャリアの「遅いスタート」を挽回する方法 | 何かをやるのに遅いということは決してない。 | ダイヤモンド・オンライン

夢はやりたいこと/好きなことの一つの具現化にすぎないと思っている。根本のやりたいこと/好きがあるから、夢は変わる、そして変えられるのだ
この本には凄く勇気を貰えた。

何でこの本の話題出したかというとAqoursの最新曲「Jump up HIGH!!」を聞いたときにこの本のことが思い出されたからだ。


Aqours Jumpin' up Project テーマソング「Jump up HIGH!!」試聴動画

(take a chance!)まだ間に合う!
(take a chance!)素直になれ!

私はこの曲を初めて聞いたとき、この歌詞に凄く驚いた。
1年前の私の気持ちだって…
何に間に合うのか?Aqoursを好きになること?それともあなたの夢はまだ間に合う?
まあそれはどっちでもいい(というよりどっちともとれると思う)。
私は福岡公演で感じた「動いてないと探せない」というAqoursからのメッセージを受け取った。
そのメッセージはあまりに強く大きくてその後何かをせずには居られなくなって、この本を読んだ。その時の気持ちを思い出した。

さて、それから1年。私はAqoursに貰ったエネルギーで転職した。
その話は他の所で書いてるからいいとして、1年間Aqoursを忘れることなんてなかった。
「好きでよかった」と思えるし、きっと私はある意味で「間に合った」んだと思う。

いつか 思い出に変わるの?変えてない!
現在進行形だよ i-n-gだよ 懐かしいなんて後にしようよ Aqours「i-n-g,I TRY!!」より

でも、Aqoursも人生もまだ全くもって思い出ではない。
特に、転職なんて職が変わっただけで区切りでしかない。
今は研修がめちゃくちゃキツくてひいこら言っている。こんなので"終えた"なんてとてもじゃないけれど言えない。
成し遂げられようと成し遂げられなかろうと、私たちは現在進行形の今を生きているのだから。

おわりに

こんばんは、あしかです。
7月8日はAqours 3rd LIVE TOUR福岡Day2公演の日でした。(ファンの定義にもよりますけれども)私がAqoursのファンになった日でした。
3rd埼玉と福岡の間のAqours関連の商品(BD7巻とAqours CLUB)は両方買ってるんですけどね…

Aqoursに対する見方が完全に変わった日でした。
福岡公演Day2の「キセキヒカル」。あの曲を聞いたときにAqoursからのメッセージが伝わって、こんなにライブって凄いものなんだと感じられました。
Aqoursラブライブ!)にハマった人のきっかけを聞いていると、何かのライブでハマるという話を聞くことが多い気がします。

自分もまさにそのタイプで、この福岡公演をきっかけにこの1年の間に20公演程度ライブ(orファンミ)の現地に行き、多分どちらかというとすっかり行き慣れている側の人間になってしまいました...。

ライブの順位付けなんて無礼なのかもしれませんが、私の中で3rd福岡を越えるライブはありません
3rd福岡公演のアウトプットを残したかったというのはブログを初めるきっかけの一つでした。
衝撃があまりに強くて、その気持ちを忘れたくなくて残したくて。どうしても何か記しておきたくて書きました。

比較的遅めのファン(多分)である私と同じように、これからファンになる人もいると思います。
そういう人に「まだ間に合う」と伝えたいなと思います。

*1:この評価の根底には終わりが上手くまとまっているかどうかが私の中で大きな評価軸になっていることがあります。当時はうまくまとまっていると評価はできなかった。

石原夏織1stLIVEBD発売記念イベント「CARRY PLAYING+」5/25 昼の部レポート

こんばんは、あしかです。
CARRY PLAYING+@SYDホール、あまりに楽しかったので書きます。




前回のお渡し会であった「CARRY PLAYING」は都合が合わず行けなかったので、どんな様子かは全く知らないまま会場へ行きました。

今回は普通のお渡し会ではなく今回は「キャリーに名前呼ばれ会」ということで石原夏織様から直々にお名前を呼んでもらえるというスタイル。
この話を聞いた瞬間ぜひ行きたいなと思っていました。いや、別にお呼ばれされなくてもいきたいんですけどね...。

f:id:ashika_ouou:20190618014023p:plain
ラブライブ!サンシャイン!!2期4話「ダイヤさんと呼ばないで」より
僕が名前を呼ばれることに"目覚めて"しまったのはこれのせいです。
当時、そんなに真剣に見てなかったのにここは真顔になりました。
ガッツリセリフで「アシカさん(ちゃん)」があります。
生まれてきてアシカという名を授かって本当によかった(大袈裟)
目を覚ませ〜〜。

イベントの方は「知らないけど、1枚で当たるでしょ~」と思ったら当選。見る限り割と1枚だと落ちている人もいたみたいなので運が良かったです。
本当は2枚目買おうかと思ってアニメイト行ったら特典がなくなっててキレて買いませんでした

開演

夏織さん登場。列は前方(5列目くらい)でした。
あの一言よろしいですか?
衣装めっちゃかわいくない!?!!?!?!?!?!?


もうこれだけ鑑賞して終わりにしてもいいくらいには可愛い(何を言ってるのか分からない・・・)
写真だけでも十分に美しい夏織ちゃんを見ることが出来るんですけど、以前から申し上げてるんですが、サイズ感が良いなんですよね。
サイズが凄く小さい(※152cm)から写真も良いですが、実物はむちゃくちゃかわいらしいんですよね。この衣装で現れた時の「うわあ・・・」感は凄かったです。

CARRY PLAYING

PLAYINGなのでゲームをする企画です。
簡単なゲームなのかと思いきや、今回のゲームは炎の5番勝負

内容はキャリさんがゲームに挑戦して成功すればご褒美、失敗すれば罰ゲームというルール。
3つ以上クリアすれば成功。
技・体・食・謎・協の5つのゲームをやっていきました。

順番はどれからでもいいんですけど、夏織さんは律儀に順番通りやってました。

小さいサッカーボールで80cm先にあるボウリングのミニピンを倒すというもの。

夏織さんの自信のほどは、と聞くと
「小学生の時に学校のサッカーの授業でディフェンダー?がすごく上手くて褒められて女子サッカークラブに誘われるくらいだったので、自信はあります!」

なんでサッカークラブに誘われるくらい上手いのにディフェンダーに「?」がつくんだ?という疑問は拭いきれませんがどうやら自信はあるとのこと。

ピンはすぐ倒れるらしいので、このゲームのキモは正確にまっすぐ蹴るということ。

夏織さんが蹴ったボールは...

浮き上がって音響スタッフの方向へ飛んで行った。

あの…。
いやさ、ステージが平らだから足元はよく見えなかったけど絶対つま先で蹴ったよね?
普通横から蹴るでしょ...といつもの通りツッコミどころしかない。

この時点で会場は笑いに包まれました。
しかしスタッフは危険を感じたのか、急遽机の上で手でボールを転がすという方針に変更し、普通にゆっくり転がしたので成功
これでいいのだろうか…。

万歩計を30秒以内で100回以上カウントされればクリア。
万歩計あるあるですけど、振っても反応しないんですよね。最初確か振ってたんだけど反応しなくて焦って会場を走り回ることに。
結果は65回とかで失敗

綾鷹お〜いお茶伊右衛門の3つの利き茶をするという企画。

順番は忘れてしまいましたが、お〜いお茶伊右衛門綾鷹と味を確認するキャリさん。

お〜いお茶→匂いがする〜
伊右衛門→匂いがしない
綾鷹→匂いがする〜

って言ってました。食レポ下手すぎでは…?
お〜いお茶綾鷹の区別出来てなさそう...と思ってたらスタッフが出してきたのは綾鷹

スタッフも悪意があるなあと思いつつも、キャリさんは見事綾鷹を選び成功
綾鷹には茶葉が沈んでいるらしくてそれで見分けたみたいなことを言っていてほぼ完璧だったんですよね。

「事前には一番苦手そう」とか「なぞなぞが来そう*1」と不安がっていましたが実際の課題は、山手線の駅を1分間に20個書ければクリアだったかな。絶対無理でしょと思ったけど、案外さらさら書いて18個くらいは書いてました。時間があれば間に合った様子でしたが失敗

会場の中で何とかをした人というのを挙げてもらって最後に一人になればクリア。
昨日の夜にすきやき食べた人で3人になって今日の昼に何かを食べた人で1人になったんだっけな。忘れた。とりあえず成功

3つ成功・2つ失敗ということでご褒美獲得。
ご褒美はマカロンだったかな。「色づく」の最終回で食べたやつだ~と言っていた気がします。

これで既に1時間弱。
え、無銭イベントだよね??は??
ここから本題のお呼ばれとお渡し会です。

お渡し会

呼ばれる名前も話す内容は決めてました。

前のおじさんも"くん"づけだったので、僕も間違いなく"くん"づけだなこれはと思っていました。
キャリさん「あしかくん
はい、優勝。

ここからは真面目な話で、僕は1st LIVEのキャリさんのMCを聞いて「接近ってキャストにとって大事なんだな」と感じて自分の中でお渡し会のスタンスを変えたんですよね。
以下は過去ブログの抜粋です。

石原夏織オフィシャルブログ「Mahalo.」より一部抜粋
よく皆さん、自分は大した力になれないけど応援してるねって言ってくれますが、それは大きな勘違いで、*みんなが思っている以上に力強くて、私は勇気づけられて進んでいく事が出来ています。
私もみんなが力をくれたように、私もみんなの力になりたいです。


このMCで涙する夏織さんを見て、完全に泣いてしまいました。
キャリさんの言った「勇気をもらっている」という言葉はそれこそ「こちらこそ」なのです。

好きで応援してる人に「みんなの力になりたい」なんて言ってもらえることなんてこれほどうれしいことはありません。というより既になっているから、そのありがとうを伝えたくて、こうやってこの場にいるんだよって言いたい。

また、推しに対して願うことは人によって色々あるでしょうが、根本は幸せを願うということだと思います。そんなキャリさんが「幸せだ」と言ってくれたことはすごく価値のあることだし応援してよかったなと思います。

ashikaouou.hatenadiary.jp

要は「応援してます」の声が嬉しいみたいな話ですかね。
だから「応援しています、いつも元気を貰っています」ということを伝えたくて伝えました。

それがキャリさんの力になるのならばと普段思っていることを言うだけ。
まあこれを言うと、「ありがとう!」(ここらへんで剥がされる)「~のイベント期待してます」「バイバイ~」みたいになって会話にはならないんですけどね……。

終わりに

ポニーキャニオン素晴らしい。素晴らしすぎる。
キャリさんは"癒し"なんですよね。

名前呼ばれについてですが、やはり名前呼ばれるというのはセコい。

いつもお渡し会では「図々しいしそんな余計な仕事を増やしても」という気持ちと「折角ならいつも応援してくれてくれる人と認識してくれた方がいいのでは?」という相反する気持ちがあって、その二つがぶつかった結果、名乗らないのでこういう場があると名乗りやすくていいですね。まあモブみたいなことしか話せないので覚えられてるのかは不明ですし、「覚えられてるかどうか」は気にしたら負けな気がしますけどね。怪獣娘の時、お渡し会3回目なのに初めましてと言われた記憶がありますし…

ニューシングル「TEMPEST」のお渡しは東京のは全部通ればいいですね。イベント「TEMPEST MISSION」を当てる経費のついでにお渡しも通ればいいなあくらいですけどね。
ちなみにこの「TEMPEST MISSION」ってイベントは僕の誕生日にやるのでめちゃくちゃ高まってます。
去年と同じ会場ですが、今年は両部絶対当てるぞという気概があります(去年は昼しか通らず夜にアルバムとライブの告知されて結構悲しかった)。

お渡し会って次がある時にしかやられない気がしますが、「次の~期待してます!」と言えるほどの告知があるのはやはり良いことですね。

ここまで読んでくれて石原夏織のこと知らね~って人は次クールの「魔王様、リトライ!」というアニメでOPとキャストをやっているので、是非。
アニメの内容は特に保証しませんが、下のMVだけでもせめて見てください。曲はダンスナンバーでバリバリ踊ります。とてもかっこいい。そして美しい...。
あとラジオ(A&G 月19:00~)は"めちゃくちゃな"番組で面白いです。


石原夏織 3rd Single 「TEMPEST」MV short ver.

おしまい。

*1:キャリさんはなぞなぞが苦手で1年前くらいのイベントではなぞなぞだけが書いてあるお便りとか送られてましたね

虹と紙飛行機〜Aqours 5th LoveLive! Next SPARKLING!!感想〜

2019年6月8日、メットライフドームAqours 5th LoveLive! Next SPARKLING!! day1のアンコールだった。私はアリーナ席で連番者と話していた。話していたのは他愛もないことで、「セルコンびっくりしたし熱かったね」とか「ネクスパまだやってなかったら終わりだと勘違いしちゃうね」とかそういう話をしていた。
お決まりのAqoursコールをしたり会話したりしていると、周りが少しざわざわした。
近くの人が「みてみて!」と隣の連番者と思われる人に言っているのが聞こえた。キャストはまだ出てきていない。むしろステージではなく、横や後ろをを向いて言っている。
割れんばかりのAqoursコール。3rdからの定番である。そのAqoursコールが何かあったのか?どういうことだろう?そう思って取りあえず近くの観客が見ている横側を振り向いた。


私は虹を見たのだ。
確かに間違いなく雨の後にかかるあの"虹"を見た。

この虹はアンコールが始まったAZALEA*1の「卒業ですね」でも崩れなかった。本来ユニット担当のキャラクターの色で埋まるはずの会場。アリーナは確かに赤緑黄の色とりどりだったが、スタンドは虹の形を保っていた
それどころかアンコール3曲→幕間映像→Next SPARKLING!!→最後の幕間まで全てずっとスタンドの虹は虹を保っていた。

とても普通の反応とは思えない。ユニット曲が始まったらそのユニットの中の推しカラーで埋め尽くされるのが普通で、特にアンコール3曲目のCYaRon!「サクラバイバイ」はトロッコ曲で本来ならそこに来たキャストの色に変えて振るのが自然な反応である。例えば2nd Liveでのこの画像のように。

ラブライブ!サンシャイン!! Aqours 2nd LoveLive! HAPPY PARTY TRAIN TOUR Blu-ray/DVD 【ダイジェスト】「地元愛♡満タン☆サマーライフ」*2より

でも各々がいきなりその場で与えられた役割を保って色を変えなかった。その当人に虹であることにどんなメリットがあるかと言えば、ハッキリ言ってしまうとあんまりない。そこにあるのは意識か無意識か美しさを保つための意志だけだった。

一人でも違う色を振ると虹は虹とみなせなくなるかもしれない。そういう危うさもあったし、前述の「サクラバイバイ」のようにキャストとコミュニケーションを取れる権利であるはずなのに権利をわざわざ放棄してまで虹になることを徹したのだ。
これはルールでもレギュレーションでもマナーでもない善意だったように思う。その意味において本当にただ美しい空間だった。
(補足)
2日目はアリーナの一番後ろだったのでスタンド最前の挙動は良く見えましたが「サクラバイバイ」で1日目に思っていた以上にはキャストに振っていたので勘違いかもしれません。ただし、先に述べたようにその反応がむしろライブを楽しむ上では「自然な反応」だと思っていて、いわゆるトロッコ当たりの座席を引いてキャストに振ってもらえる可能性があるというのは権利な訳でそれを放棄しろというつもりはありませんし、キャストに振ることに関して批判するつもりもありません。また、少なくとも最前付近より後ろは虹を保っていたのは2日目もみられたという点ではやはり美しいと思います。


「10人目」が美しさにこだわったならAqoursも美しさにこだわったライブだと思う。
今回はアンコール以降のセトリの話をしたい。

EN01. 卒業ですね
EN02. Guilty?Farewell Party!
EN03. サクラバイバイ
(この3曲を「卒業ソング」と呼びます)
幕間1
EN04. Next SPARKLING!!
幕間2

構成の変化

まず1st〜4thの構成から大きな変更があった。
今回のライブ構成で今まで変わった事といえば、 「キャストのMC」「告知」を今まではアンコールの最後の曲の前に置いていたのに対してアンコールの外に置いた(前者はアンコールの最後の曲に、後者は5/30の生放送にて告知していた。)。
この二つの共通点は「ライブの外へ向ける要素」である点で、今回その二つをアンコールから外した。

要はアンコールに(幕間を含んだ広義の)アニメライブ以外の要素をなくしたのである。

その効果は"キャラクターとしての"Aqoursの「卒業」を意識させることであった。
「10人目」に向けた卒業式の意味合いがあった。普段は「10人目」という言葉にそんなに肯定的ではない私だが、今回のライブに関して言えば「10人目」の存在は必須であったように思う。

卒業ソング

卒業ソングについてだが、当初ユニット曲だから真ん中くらいに流れるのだろうくらいに思っていたのだが、アンコールというライブの終わりに使われることでキャラクターが卒業することを強く主張している。
卒業ソング3曲では、等身大のAqoursのキャラクターたちがユニットとして卒業について思うところを述べている。
彼女達は3年生が卒業すること、そして時が過ぎていくことを決して否定しない。これは「WATER BLUE NEW WORLD」*3や「Brightest Melody」*4などの楽曲にも現れている。
その時の流れの中で卒業していく。

幕間1

まず幕間1では劇伴「Everything is Here」が流れ、映画ではおなじみの無くならないよの下り使われる。
Aqoursはなくならない」という言葉は無くなる可能性が全くない時にはわざわざ使わない言葉で、"あたかも"なくなりそうに見える時に「なくならないよ」と使うはずである。
また劇伴の「Everything is Here」は「全てはここにある」という意味で、これは果南が千歌の胸を指刺して「ここにあるよ」というシーンや学校の前で「全部ここにあったんだ!」という千歌のシーンと重なる。つまり、「すべてはここ(胸の中)に残っている」ということである。
二つを組み合わせると、「私たちはいなくなるように見えるけど、胸の中に残っているからなくなりはしない」ということになる。

Next SPARKLING!!

前提(10!を叫ぶか?)

「Next SPARKLING!!」前の幕間の最後はいつもの号令をして始まる。いつもの光景、映画でも何度も見たシーンだった。
しかし、一つ私には違和感があった。
「9!(鞠莉)」から「聞こえた」のセリフの間が映画より少し長い気がするのだ。
ライブで「10!」を叫ぶ余地があるのかどうか?(私は叫ぶつもりはなかったが)については個人的に気になっていて、ライブの前の週に映画館で該当シーンを確認していた。
その時に感じたことは「『10!』を叫ぶ間はそもそも物理的に存在しない」ということであった。
しかし、今回は「10!」を叫ぶための"間"が存在した。そういう風に思える。*5
以後の話はAqoursが"間"を空けてくれたという前提でみんなで歌うのはどんな意味があるかのお話。

歌について

「Next SPARKLING!!」は、映画において3年生がいなくなっても心は一つであるということ、そしてその3年生の想いは残っているから新生Aqoursの始まりの歌だった。しかし、映画において9人だったように見えるものも、ライブで「10人目」が内包されているとなると以下の通り意味が変わってくる。

映画→3年生はいなくなるように見えるけど、1・2年生の心の中に残っているから新しい輝きを目指せる
ライブ→ アニメのAqoursはいなくなるように見えるけど、10人目の心の中に残っているから新しい輝きを目指せる


ライブではもはや最後の曲を一緒に歌うということは定番となっているのだが、今回は同じ曲を一緒に歌うことでより「10人目」を意識したメッセージ性のある曲となった。一つ例をあげるならば以下の歌詞だろう。

止まらない 止まらない 熱い鼓動が
君と僕らはこれからも つながってるんだよ
「Next SPARKLING!!」より

この「君」は「3年生」であって「僕ら」は「1・2年生」であったのに対して、ライブでは「君」は「10人目」で「僕ら」はAqoursと意味が変わる。また、我々も歌うとこの「君」と「僕ら」は逆転する。つまりお互いが繋がっているということを双方向で確認している歌になるのだ。
この歌詞で言えば、これからも繋がっているんだよとをAqours"約束"したということだ。

幕間2

二人の少女と10人目

ここまでは「10人目」の存在を前提としていることについて確証は持てなかったがここの演出で確信した。

最後の幕間では映画の最後のシーンが意図的に"間引かれた"形で映された。

ライブでは「Next SPARKLING!!」が終わった直後にいきなり「Aqours」の文字を書くところから始まる。

逆に映画では、Aqoursに憧れる女の子二人が内浦の砂浜に来て「聖地だよ!」とはしゃぎながら「私も高校生になったら(Aqoursのように)スクールアイドルをやって輝きたい!」と言いながら砂浜に「Aqours」の文字を書き始める。

この「二人の少女」が消されていることでAqoursの文字を誰が書くかは明示されていない。
だけど、この場にいるのは「10人目」だけであり(「Next SPARKLING!!」の終わりにはキャストですら舞台から降りてしまうのでステージには誰もいない)、「10人目」が映画における「二人の少女」のような役割を果たしていると考えられる。「10人目」と「二人の少女」の共通点はAqoursに魅せられている点。その魅せられた気持ちの表れが砂浜でAqoursという文字を書く行為にあたる。
実際「10人目」が内浦の海岸という"聖地"に行ってAqoursという文字を書くことは「二人の少女」が行ったように日常的に行われている。
ここで映画と文脈は全く同じではないものの、「10人目」と「二人の少女」がリンクする。

紙飛行機

そして、最後にどこからかやってくる紙飛行機。
最後のAqoursと書かれた文字の横には紙飛行機が置かれている。
紙飛行機を飛ばす行為とは物語においてどのような意味を持つのかから考えていきたい。
私は以前から紙飛行機を飛ばす行為とは、「意志ある挑戦」を示すのだと思っている。
その理由をまず紙飛行機の性質と機能を説明し、そしてラブライブ!サンシャイン!!という作品においてどのような意味合いを持つのかを考えてみよう。

☆紙飛行機の性質
まず紙飛行機は自然にできるものではなく紙から人の手によって作られる。
つまり紙飛行機は"人の意志"をもって作られるものである。

☆紙飛行機の機能
紙飛行機は"飛行機"と名の付く以上移動する。移動する物体には必ず移動の向きが存在する。紙飛行機の場合、移動の向きは飛ばした人によって決められる。
つまり、紙飛行機は飛ばした人が飛ばしたい方向に飛ぶ。つまり必ず紙飛行機には向きと目的地が存在する。

ラブライブ!サンシャイン!!における紙飛行機
紙飛行機は思うようには飛ばない。風や空気抵抗によってすぐ方向が定まらなくなる。むしろ風にうまく乗れば思いもしないほど飛ぶ時もある。
紙飛行機を飛ばす行為は挑戦することを意味する。
つまり、何かに挑戦することに多かれ少なかれ外圧があることを示しており、必ずしも自分の思い通りにいかずうまくいかないことを示している(実際に映画の冒頭で幼い千歌は紙飛行機をうまく飛ばすことに失敗している)。
でも紙飛行機は飛ばなかったらすぐ手元に落ちる。
f:id:ashika_ouou:20190616120618p:plain 手元にある紙飛行機を拾ってもう一度飛ばすという行為のリスクは少ない。
何度でも紙飛行機を飛ばせる、つまり挑戦できるということだ。
挑戦に足踏みする人間に対して「意外と紙飛行機を飛ばす行為のように挑戦することのリスクは少ないかもね」と言っているように思える。紙飛行機の例えについて考えるとき毎回私は「勇気はどこに?君の胸に!」を思い出す。

何度だって追いかけようよ 負けないで
失敗なんて だれでもあるよ
夢は消えない 夢は消えない
勇気はどこに?君の胸に!」より


紙飛行機になぞらえるならば、
「紙飛行機を飛ばすことが失敗することは誰でもある。だけど、失敗した紙飛行機は手元にある。だから紙飛行機は手の届かない所に飛ぶまで何度でも飛ばすことが出来る。飛ばすのを諦めるその瞬間まで手元にある紙飛行機の存在は消えない
ということになるだろう。

前置きが長くなったが、更に限定して今回のライブにおける紙飛行機について述べたいと思う。
今回の紙飛行機は2期12話で千歌の元から飛んで行った紙であると推測される(実際、この紙飛行機がどんな紙飛行機かについて精緻に考察している方がいるので紹介させていただきます)。

合計11回登場している紙飛行機ですが、分類してみると実際には3種類の紙飛行機が劇中に存在していると考えられます。

紙飛行機の話 - ぶブログ


こちらの記事のとおり、アニメの中に出てきた紙飛行機は3種類あり、そのうち今回のライブにおける紙飛行機はⅢの2期12話「光の海」で千歌が飛ばした「0」の紙と同じである。

ここで二つの疑問が生まれる。
1.何故、紙飛行機が無地ではないのか?
2.何故、2期12話「光の海」では紙だったものが紙"飛行機"になっているのか?

まず、何故無地の紙飛行機ではなくて「0」の紙飛行機が飛んで来たのか。
この「0」の紙がAqours固有のものだからだ。


千歌(Aqours)の根底には1期8話「くやしくないの?」における東京スクールアイドルワールドという大会で「0票」だったことの悔しさがある。「0」という結果を突きつけられたこと、この紙が"事実/過去"だとするならばその紙を見てどのような方向に向かっていくか?(千歌の"方向"は「0」を「1」にしたいであった)を示す紙飛行機は"意志"である。

また、"紙"ではなく"紙飛行機"なのは、伝えたいのが"事実"ではなくて"意志"だからだと考えられる。
千歌が飛ばしたのは紙で、その時点で千歌から離れているので、それを紙飛行機にするという描写は存在しない。

でも紙飛行機を"意志"と捉えるならば、どこに飛ぶか分からない紙より、明確な意志を持って飛んでくる紙飛行機になる方が自然である。
(紙が紙飛行機になる瞬間についての根拠がないから少し甘いかもしれません。そもそも元となるサンシャインの映画で「なぜ、最後のシーンは紙飛行機になっていたのか」というところから考えなければならないと思います。ただ、私としては「意志を具現化したら紙飛行機となった」以外の理由はないのかなと思います。)

では結局この紙飛行機はどんな意志を伝えたかったのか?
まず、映画において紙飛行機はAqoursの文字を書いたすぐ横に飛んでくる。
これはAqoursの意志を受け継いで、「私もAqoursのように輝きたい」という二人の少女に向かって「次はあなたが(スクールアイドルを)やる番ですよ」と伝えていると解している。
しかし、今回のライブにおいては映画とは違って、その紙飛行機は「10人目」しかいない場に置かれている。このライブの観客は別に「スクールアイドルをやりたい!」という人だけではないだろう*6。だからもっと一般的な話で、「次はあなたが夢を叶える(又は挑戦する)番ですよ」というメッセージだと思っている。

残るのはAqoursの文字と紙飛行機だけ。「あなたはどうする?」とまるで「10人目」に聞かれているかのよう。Aqoursが飛ばした紙飛行機に触れるかそれとも無視するかも「10人目」に委ねられている。でも、「あなたがもし何か挑戦するなら私たちの挑戦を思い出してほしい。すぐ近くにあるから。」と紙飛行機を置いてくれている。アニメのAqoursとしての最後のささやかな後押しである。挑戦を厭わない、だけど「必ず出来る」なんて言わなくて、その背中を押してくれる。とてもAqoursらしくて美しい終わり方だなと感じる。

君の中眠らせてたのは どんな夢なのか教えて
「Jump up HIGH!!」より

どこかから飛んできたこの紙飛行機は内浦の海岸で止まる。「意志ある挑戦」を続けたAqoursが一つの着地点に辿り着いた「軌跡」の一つの終わりを示すのだろう。少なくともAqoursの意志を乗せた紙飛行機はAqoursの元を離れて止まったのだ。卒業も併せて一つの区切りを表すのであろう。

最後に〜虹がかかるということ〜

「10人目」は「美しさ」にこだわり、虹をかけた。
Aqoursも「美しさ」にこだわり、今までのライブと構成を変えてまで卒業と紙飛行機のメッセージを伝えた。
思い思いのカラーのペンライトを振るほうが簡単なのに。
今までと変わらない構成にするほうが絶対に楽なはずなのに。
Aqoursも「10人目」も予期していなかっただろう卒業と虹。"奇跡"であった。
私は"奇跡"という言葉があまり好きではない。なぜなら、物事を"奇跡"と呼んでしまうと誰かの努力という内生的な要因をないがしろにして突然あたかも外生的にその物事が生じたかのようなニュアンスに捉えられてしまうからだ。それでも誰も予期しなかったコンビネーションは"奇跡"と呼びたいなと思う。

「奇跡は起こるのかな?」
「私、思うんだ。奇跡を最初から起こそうなんて人いないと思う。ただ一生懸命夢中になって、何かをしようとしている。何とかしたい。何かを変えたい。それだけのことかもしれない。だから!起こせるよ、奇跡。私たちにも!」
「起こるかな、奇跡!」
「起こるよ!だって…だって…!虹がかかったもん!
(君のこころは輝いているかい?が流れる)
どっちにするかなんて選べないし、どっちも叶えたいんだよ。だから行くよ!諦めず心が輝くほうへ!」
アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」2期3話「虹」より

虹がかかったことは2期3話においては奇跡が起こることの理由づけにされる。 しかし、この奇跡が起こる理由づけは全く持って論理的ではない。
要は奇跡が起こる根拠なんて最初からないのだ。これは単なるおまじないで、信じるための後押しである。

実際アンコールの虹はライブの演出やシナリオの外にあることなので、この虹には示唆も意味も本来はない。そんなことは最初から分かっている。
だけど、みんな大丈夫だ。だって虹がかかったもん。と言える気がする。
分からない未来に対して、虹というおまじないがこう思わせてくれたのだ。

パンフレットには虹色の紙飛行機の背に虹が映っていた。虹色の紙飛行機は、虹を越えてまっすぐ空高くそれぞれの道へ飛んでいく。
そしてきっとそれぞれの色でそれぞれの道へ虹からは見えなくなるほど高い所まで飛んでいくのだろう。

一つの区切りは永遠の別れではない。別れの次に待っているのは出会いである。
卒業したのは"アニメAqours"であって"リアルAqours"の活動は続いている(浦ラジやニコ生、CDなど)。コンテンツを畳んだ訳では決してない。
だけど、今まであった"アニメAqours"が卒業するのは寂しいのも確か。
そんな寂しさを抱えながら、私たちは「全てがここにある」というメッセージを受け取り、Aqoursが残した紙飛行機をそれぞれの手に取って飛ばすのだ。
寂しさはあれど、区切りとしてはやはりとても美しくそして温かいライブだったなと思えた。
伊波杏樹さんのMCでもあったが、また会える時のために「好き」を続けること、また会うための「場」を残すことが大事なんだと思う。「会いたい」と思う限り「好き」で居続けること。「好きだ」と声にすること。とても難しいが、それが私たちに求められていることなのだと思う。

*1:ユニットカラーがピンク、キャラクターのカラーが赤緑黄

*2:https://www.youtube.com/watch?v=OA_3A_BhloU

*3:「時は今日も過ぎていく止められない」や「ずっとここにいたいと思ってるけどきっと旅立って行くって分かってるんだよ」

*4:「だけど先に道があるいろんなミライ次のトキメキへと」

*5:実際のところこれは他の人よりは少し新しい記憶というだけで曖昧な記憶を論拠にしています。物理的な余地がないように思えたと述べましたが、物理的余地について検討するならば、例えば応援上映で「10!」を叫んでいたかとかの方が論拠になるかもしれませんね。「太陽を追いかけろ!」のように「10!」の間はあまりないように感じられるのに「10!」を叫ぶパターンだってあり得る訳ですし

*6:勿論伊波杏樹さんや大西亜玖璃さんのように、実際にラブライブ!シリーズが好きで憧れ、本当にその好きの思いから「スクールアイドルになる」という夢を結実する人もいるのだが、大半はそうではないだろう

永遠って言いたくなって~Aqours 5th LIVE Next SPARKLING!!に向けて~

Thank you,FRIENDS!!の歌詞には「永遠」という言葉がある。

永遠って言葉が出て来たよ不思議と

永遠って言いたくなって


最近までこの言葉の意味がよく分からなかった。
永遠を意識すればするほど、その事実と離れていることが浮き彫りになる。
「永遠と言いたくなる」という気持ちが分からないわけではない。共感もする。
でもこの"永遠"は永遠ではないんじゃないだろうか?という疑念があった。
虚勢を張っているだけのではないだろうか。
虚勢だからこそ趣深いという考え方は確かに存在するが、その意見はただの虚勢であることは否定できていない。

そんな時に諏訪部順一さんのツイートを見かけた。


この言葉を見た時、目から鱗であった。
私の言っていることは半分正解で半分誤りであった。
つまりはこういうことだ。
「永遠」であることと「永遠を感じる」ことは違う。
「永遠」は存在しない(またはその存在を立証することは難しい)。
だけどそんな存在しない「永遠」であっても、「永遠を感じること」と「永遠を感じないこと」は明確に違うのだ。
だから「永遠」でなくとも今「永遠を感じる」ことには価値がある。
歌ってそういうものだろう。その歌に乗せた言葉が事実か正しいかなんて本質的にはどうでもいい。今その時の気持ちを歌うだけ。でもその気持ちは間違いなくそこにあってそれは真実だ。
そう理解した時、やっとこの歌詞の意味が分かった。


4th LIVEについて

思えば4th LIVEの時、事前には失礼ながらほとんど期待していなかった。

そもそもコンセプトが何なのかも全くわからないし、3rdから4thまでに出た新曲は3曲。むしろとある不安を抱いていた。
先代のμ'sは、東京ドームでFinal Liveを行った。東京ドームといえば、μ'sにとっての終わりの象徴であった。
Aqoursもこのライブで「終わりを示す」のではないかということ

分からなくはないが、こういうネガティブな声は聞いたし、「μ'sのゴールを勝手にAqoursのゴールに設定していた人」はたくさんいた。
正直言うと見るたびにうんざりしていた。

自分自身は「うるせえ終わってほしくねえんだよ!!!」と抵抗する側だったが、不安がない訳ではなかった。
次がないことなんてあってたまるか、終わるわけがない、終わってほしくないその一心で迎えた4thライブは蓋を開けてみれば本当に素晴らしいライブだった。ライブ前にネガティブだった自分が愚かだったなと反省するほどには。
μ'sの時終わりの象徴であった東京ドームはAqoursにおいてゴールじゃなくて、道半ばであった。だからこそ"今まで"と"これから"を示すものだった。
パフォーマンス、楽曲、演出等色々あったけど私個人として最も嬉しかったのはライブと告知で"これから"の道を示してくれたことであった。

未熟

映画「ライライブ!サンシャイン!!」で初見時に、個人的に物凄くAqoursらしくて好きだなあと思ったシーンが2つある。
静真高校の部活動発表会での失敗があり、「6人のAqours」について考え直す内浦の海岸での千歌と梨子の会話。

「私たちきっとまだまだなんだと思う」
「優勝したのに?」
「でもまだまだ」
「そっか、まだまだか」
「まだまだやれることたくさんあるって思える方が私たちらしい」
「走ろうか!」
「うん!」

初見時、一番最初に涙が止まらなくなったシーンだ。
ラブライブ!」シリーズには時折わざとやっているんじゃないか?と思える"リアル"との生々しいリンクが存在する。
例えば、無印の映画にあったあまりに人気が出すぎて歯止めが効かなくなる「?→HEARTBEAT」前後のシーンも非常に生々しくて初めて見たとき衝撃的だった。
この会話もまた、"今のAqours"を表している生々しさがある。

以前も紹介したが、津島善子役の小林愛香さんはとあるインタビューでこう述べている。

「でも私たちって、最初からドームでのライブ、紅白出場を求められたと思うんです。それが最低ラインというか。そこに立たなければ、その先もない。私たち的にはそこがスタートライン。大人には東京ドームは通過点と言われていました」*1


要は「まだまだ」なのだ。でもセリフにもある通りまだまだというのは裏を返せば「やることがたくさんあること」を示している。実際に梨子はそう捉えて私たちらしいと言っている。
きっとなんだってそうだ。現状に満足したら終わりで、探せばいくらでも「まだまだやれること」は存在する。だから、「そっか、まだまだかぁ」と言う千歌や「走ろうか!」と言う梨子はなんだかとても嬉しそうな笑顔で「走ろうか!」と一緒に走り出す。

あぁ、終わらないんだ

このシーンを見た時リアルとアニメが繋がってそう思えた。

「物事は捉え方次第」というのはラブライブサンシャインの一つのテーマである。
彼女達は悩みながらでも突きつけられた厳しい結果にも決して怯まず、そして歩みをやめず前へ進んだ。
思えば、彼女たちはいつだってそうだった。
彼女達のそんなひたむきさに私は涙したのである。

もう一つが劇中歌「Next SPARKLING!!」。
この曲は映画のEDであり、なおかつ新しいAqoursの始まりの曲である。
その中でも、Aqoursの9人が踊るシーンのあと十字の光が空に映るシーンで千歌はこう歌い始める。

今だって 未熟だけど

私は本当に驚いた。彼女たちは映画のEDで最後の最後ですら自分のことを「未熟」と評するのか、と。
イタリアやSaint Snowの問題、更には「まだまだ」という言葉が当初出てきた静真高校とのわだかまりを乗り越えて、行きついて出てきた言葉が「未熟」である。
何かを乗り越えて自分のことを「未熟」だと思える人間は凄く強い。
「未熟」と歌っている千歌はきっと目を輝かせているだろうと思う。
次の輝きを描きながら。

Next SPARKLING!!〜内と外の話〜

なんで9人で歌うのか?については色々議論があるが、正直ファン以外の人にとってストーリーの整合性(のようなアニメを外からの「評価する」立場にたつ時に使うツール)をもって、9人である理由を見出すことは難しいと思っている。少なくとも私は意味不明とは思わなかったが、万人が納得できるような理由を見出せなかった。
だが、逆に私はコンテンツ内にいる1ファンとしては「そりゃあ9人で歌うだろ」と思っている。
初見時からスッと入ってきてあまり疑問を抱かなかった。

これからの話の前提としてAqoursの「内と外」という概念が登場する。説明すると、アニメの登場人物は以下の3つに分類される。
Aqours:当然Aqoursそのもの
Aqoursファン:浦の星女学院の生徒やその父兄など
③その他:Aqoursに好きではない/興味がない/知らない人(映画でいうと初期の静真高校の生徒)

とても当たり前のことなのだが、Aqoursの内を①ではなく、①・②と書くこともできる(②を内とみなすことが「No.10」に近い概念だろう)。
以下では内を①とみなしている時もあれば、②も含んで述べている時がある。注意を払って述べているつもりだが、少々分かりづらい部分があるかもしれない。ご承知いただきたい。

まず、イタリアから帰ってきた後②浦の星女学院の生徒が①Aqoursに新しいライブのステージの構想を見せたシーンを見てみよう。
(画像はつじ写真館さんより。5/5に撮影したらしい。)
千歌達がイタリアから帰ってきた時既にステージの構想は出来上がっている。

ここで既に②浦の星女学院の生徒は「9色の虹」「9色のバルーン」を想定している。
新しいAqoursの始まりは6人であるはずなのに。
Aqoursはその時完全に分かっていなくても、②浦の星女学院の生徒は分かっている。浦の星女学院の生徒にとってAqoursは疑いようもなく9人なのだ。

1期6話「PVを作ろう」では千歌達の地元である内浦(沼津)の魅力は最後まで分からないままだった。しかし、内浦の海開きという地元の人間にとっては当たり前のイベントが「外から来た存在」である桜内梨子によって内浦の魅力として見出され、実際に評価される*2

映画の話に戻ると、千歌が見つけた「6人になっても9人で過ごした記憶や思いは消えない(から実質9人で歌っている)」という結論は言われてみればあまりに当たり前だ。当たり前だけど、当事者だから気づけない。そのことに先に気が付いているのが浦の星女学院の生徒である。ある意味「9色の虹」の話というのは1期6話と似たような構造である。
違いがあるとすれば、浦の星女学院の生徒は明示的にこのことをAqoursには言わない点。イタリアから帰ってきた後の分校でのAqoursの6人はそのことを分かり始めているから*3かもしれないし、自分で気づいて欲しいのかもしれない。

浦の星女学院の生徒はファンと重なる。
1期13話「サンシャイン!!」では浦の星女学院の生徒は千歌たちの努力を知り、何か力になりたいと感じている。
劇中歌の「MIRAI TICKET」で「10!」と叫ぶのは浦の星女学院の生徒で、まさに劇中の浦の星女学院の生徒はAqoursの魅力を理解し、主体的に参加するもの」である。
その意味においては浦の星女学院の生徒と現実のファンは"同質*4"だと言える。

映画で最後のライブは沼津駅前で静真高校の生徒と父兄が観客として行われた。
②たくさんの応援してくれてる人に支えられながら3年生の旅立ちと1,2年生の始まりの決意を口にし歌った曲。
物語としても③外部者だった月をはじめとする静真高校の関係者が②ファンとなっていくところで終わる。μ'sのスクールアイドルが根付くように「SUNNY DAY SONG」をまだ見ぬスクールアイドルに向けて歌ったということと比べてもラブライブサンシャインという作品はとても"ミクロ"だと思う。


少し本題から逸れたが、何が言いたいかというと「Next SPARKLING!!」において9人で歌うのは9人であることを内側の人間である①Aqours、②浦の星女学院の生徒(ファン)が当たり前と思っているからそれで良いと思っているということである。

4th LIVEの「想いよひとつになれ」だってそうだ。「シンクロライブ」の大原則沿って見れば8人で歌う曲を9人で歌うなんて有り得ない。だけど、9人で歌うことが本来のあるべき姿だから9人で歌うことを選んだ。これは①Aqours自身の話であるが、②ファンもこのことを受け入れた。多分文句を言う人はほとんどいないだろう。なぜなら1stでやりづらくなってしまった過去やアニメのストーリーを知っていて、その封印を何とか解きたいと願っていたから。③ファンではない一般の人には理解できないかもしれない。アニメと同じという意味でのシンクロが正しさか、本当にその正しさが必要か、という今までのライブを覆す問題提起をしたライブだった。

「Next SPARKLING!!」でも同じことが言える。
何もアニメそのものになることが正史ではない。5thで「Next SPARKLING!!」がどう披露されるか想像はつかないが、9人で歌うことを②ファンが認める、それでいいじゃないかと思う。



さあ 幕が上がったら ずっと歌っていたいね
「僕らの走ってきた道は...」より


私個人で映画で1番好きな曲の中で、映画中で1,2を争うくらい好きなシーンだ。「ずっと」。
これもまた一つの「永遠」で、ありえない願いだ。だけどそこに確かにあるのは「ずっと歌っていたい(今の)気持ち」である。
ラブライブサンシャインという舞台の幕は(映画の時制を順通りと仮定すれば*5)「WONDERFUL STORIES」で下がり、「僕らの走ってきた道は...」以降映画ではずっと上がったままである。
終わらないんだ、またそんな気持ちにさせられる。

物事には終わりがつきものである。舞台の幕はいつか下がるし、Aqoursだって終わる。私には今その覚悟はとてもできない。これからもその時が来るまで、覚悟はできないのだろうと思う。きっと「次で終わるのかも」と思ったほうが気持ちが楽で賢くて合理的なのだろう。けれど、どんなに愚かで非合理的でも私は構わないと思っている。
永遠とまでは言えなくても、どんな形でもいい。これからも力を貰いたいし、続いて欲しいのである。

やはり私が言いたいことって簡単に言えばそういうことだ。
長々と理屈を述べたが、要はAqoursに続いて欲しいということ。5th、そしてこれからもよろしくねということ。
そういうシンプルなお話でした。

5th LIVEまであと1日(いや、あと1日か...)。我々がAqoursに見せてくれるものは何なのか。凄く楽しみだ。

終わらない夢見よう。

*1:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181228-00010001-bfj-ent&p=2

*2:本筋から逸れてしまうのでこの備考のみに留めるが1期7話で寄せられる視聴者の好意的なコメントが「ランタンが綺麗」であり、Aqours自身のパフォーマンスが評価されていない点は面白いなと感じている

*3:ルビィの「できる!」やその直後の千歌の家での千歌と梨子の会話から読み取れる

*4:同じとは言わないが…

*5:なお、筆者は時制が順通りかどうかについて(というより「WONDERFUL STORIES」、「僕らの走ってきた道は…」はそもそも現実の時系列の中に入っているのかについて)はやや懐疑的であるがいったん置いておく。とはいえ「WONDERFUL STORIES」より「僕らの走ってきた道は…」が先だとは考えられなず、現実の時系列にあてはまらないにしても、そこには明確な不等号が存在するのでこの仮定が実質的に誤りという訳ではない。