"好き"の力信じて

"好き"の話をします。ラブライブ!、石原夏織、アニメなど。

永遠って言いたくなって~Aqours 5th LIVE Next SPARKLING!!に向けて~

Thank you,FRIENDS!!の歌詞には「永遠」という言葉がある。

永遠って言葉が出て来たよ不思議と

永遠って言いたくなって


最近までこの言葉の意味がよく分からなかった。
永遠を意識すればするほど、その事実と離れていることが浮き彫りになる。
「永遠と言いたくなる」という気持ちが分からないわけではない。共感もする。
でもこの"永遠"は永遠ではないんじゃないだろうか?という疑念があった。
虚勢を張っているだけのではないだろうか。
虚勢だからこそ趣深いという考え方は確かに存在するが、その意見はただの虚勢であることは否定できていない。

そんな時に諏訪部順一さんのツイートを見かけた。


この言葉を見た時、目から鱗であった。
私の言っていることは半分正解で半分誤りであった。
つまりはこういうことだ。
「永遠」であることと「永遠を感じる」ことは違う。
「永遠」は存在しない(またはその存在を立証することは難しい)。
だけどそんな存在しない「永遠」であっても、「永遠を感じること」と「永遠を感じないこと」は明確に違うのだ。
だから「永遠」でなくとも今「永遠を感じる」ことには価値がある。
歌ってそういうものだろう。その歌に乗せた言葉が事実か正しいかなんて本質的にはどうでもいい。今その時の気持ちを歌うだけ。でもその気持ちは間違いなくそこにあってそれは真実だ。
そう理解した時、やっとこの歌詞の意味が分かった。


4th LIVEについて

思えば4th LIVEの時、事前には失礼ながらほとんど期待していなかった。

そもそもコンセプトが何なのかも全くわからないし、3rdから4thまでに出た新曲は3曲。むしろとある不安を抱いていた。
先代のμ'sは、東京ドームでFinal Liveを行った。東京ドームといえば、μ'sにとっての終わりの象徴であった。
Aqoursもこのライブで「終わりを示す」のではないかということ

分からなくはないが、こういうネガティブな声は聞いたし、「μ'sのゴールを勝手にAqoursのゴールに設定していた人」はたくさんいた。
正直言うと見るたびにうんざりしていた。

自分自身は「うるせえ終わってほしくねえんだよ!!!」と抵抗する側だったが、不安がない訳ではなかった。
次がないことなんてあってたまるか、終わるわけがない、終わってほしくないその一心で迎えた4thライブは蓋を開けてみれば本当に素晴らしいライブだった。ライブ前にネガティブだった自分が愚かだったなと反省するほどには。
μ'sの時終わりの象徴であった東京ドームはAqoursにおいてゴールじゃなくて、道半ばであった。だからこそ"今まで"と"これから"を示すものだった。
パフォーマンス、楽曲、演出等色々あったけど私個人として最も嬉しかったのはライブと告知で"これから"の道を示してくれたことであった。

未熟

映画「ライライブ!サンシャイン!!」で初見時に、個人的に物凄くAqoursらしくて好きだなあと思ったシーンが2つある。
静真高校の部活動発表会での失敗があり、「6人のAqours」について考え直す内浦の海岸での千歌と梨子の会話。

「私たちきっとまだまだなんだと思う」
「優勝したのに?」
「でもまだまだ」
「そっか、まだまだか」
「まだまだやれることたくさんあるって思える方が私たちらしい」
「走ろうか!」
「うん!」

初見時、一番最初に涙が止まらなくなったシーンだ。
ラブライブ!」シリーズには時折わざとやっているんじゃないか?と思える"リアル"との生々しいリンクが存在する。
例えば、無印の映画にあったあまりに人気が出すぎて歯止めが効かなくなる「?→HEARTBEAT」前後のシーンも非常に生々しくて初めて見たとき衝撃的だった。
この会話もまた、"今のAqours"を表している生々しさがある。

以前も紹介したが、津島善子役の小林愛香さんはとあるインタビューでこう述べている。

「でも私たちって、最初からドームでのライブ、紅白出場を求められたと思うんです。それが最低ラインというか。そこに立たなければ、その先もない。私たち的にはそこがスタートライン。大人には東京ドームは通過点と言われていました」*1


要は「まだまだ」なのだ。でもセリフにもある通りまだまだというのは裏を返せば「やることがたくさんあること」を示している。実際に梨子はそう捉えて私たちらしいと言っている。
きっとなんだってそうだ。現状に満足したら終わりで、探せばいくらでも「まだまだやれること」は存在する。だから、「そっか、まだまだかぁ」と言う千歌や「走ろうか!」と言う梨子はなんだかとても嬉しそうな笑顔で「走ろうか!」と一緒に走り出す。

あぁ、終わらないんだ

このシーンを見た時リアルとアニメが繋がってそう思えた。

「物事は捉え方次第」というのはラブライブサンシャインの一つのテーマである。
彼女達は悩みながらでも突きつけられた厳しい結果にも決して怯まず、そして歩みをやめず前へ進んだ。
思えば、彼女たちはいつだってそうだった。
彼女達のそんなひたむきさに私は涙したのである。

もう一つが劇中歌「Next SPARKLING!!」。
この曲は映画のEDであり、なおかつ新しいAqoursの始まりの曲である。
その中でも、Aqoursの9人が踊るシーンのあと十字の光が空に映るシーンで千歌はこう歌い始める。

今だって 未熟だけど

私は本当に驚いた。彼女たちは映画のEDで最後の最後ですら自分のことを「未熟」と評するのか、と。
イタリアやSaint Snowの問題、更には「まだまだ」という言葉が当初出てきた静真高校とのわだかまりを乗り越えて、行きついて出てきた言葉が「未熟」である。
何かを乗り越えて自分のことを「未熟」だと思える人間は凄く強い。
「未熟」と歌っている千歌はきっと目を輝かせているだろうと思う。
次の輝きを描きながら。

Next SPARKLING!!〜内と外の話〜

なんで9人で歌うのか?については色々議論があるが、正直ファン以外の人にとってストーリーの整合性(のようなアニメを外からの「評価する」立場にたつ時に使うツール)をもって、9人である理由を見出すことは難しいと思っている。少なくとも私は意味不明とは思わなかったが、万人が納得できるような理由を見出せなかった。
だが、逆に私はコンテンツ内にいる1ファンとしては「そりゃあ9人で歌うだろ」と思っている。
初見時からスッと入ってきてあまり疑問を抱かなかった。

これからの話の前提としてAqoursの「内と外」という概念が登場する。説明すると、アニメの登場人物は以下の3つに分類される。
Aqours:当然Aqoursそのもの
Aqoursファン:浦の星女学院の生徒やその父兄など
③その他:Aqoursに好きではない/興味がない/知らない人(映画でいうと初期の静真高校の生徒)

とても当たり前のことなのだが、Aqoursの内を①ではなく、①・②と書くこともできる(②を内とみなすことが「No.10」に近い概念だろう)。
以下では内を①とみなしている時もあれば、②も含んで述べている時がある。注意を払って述べているつもりだが、少々分かりづらい部分があるかもしれない。ご承知いただきたい。

まず、イタリアから帰ってきた後②浦の星女学院の生徒が①Aqoursに新しいライブのステージの構想を見せたシーンを見てみよう。
(画像はつじ写真館さんより。5/5に撮影したらしい。)
千歌達がイタリアから帰ってきた時既にステージの構想は出来上がっている。

ここで既に②浦の星女学院の生徒は「9色の虹」「9色のバルーン」を想定している。
新しいAqoursの始まりは6人であるはずなのに。
Aqoursはその時完全に分かっていなくても、②浦の星女学院の生徒は分かっている。浦の星女学院の生徒にとってAqoursは疑いようもなく9人なのだ。

1期6話「PVを作ろう」では千歌達の地元である内浦(沼津)の魅力は最後まで分からないままだった。しかし、内浦の海開きという地元の人間にとっては当たり前のイベントが「外から来た存在」である桜内梨子によって内浦の魅力として見出され、実際に評価される*2

映画の話に戻ると、千歌が見つけた「6人になっても9人で過ごした記憶や思いは消えない(から実質9人で歌っている)」という結論は言われてみればあまりに当たり前だ。当たり前だけど、当事者だから気づけない。そのことに先に気が付いているのが浦の星女学院の生徒である。ある意味「9色の虹」の話というのは1期6話と似たような構造である。
違いがあるとすれば、浦の星女学院の生徒は明示的にこのことをAqoursには言わない点。イタリアから帰ってきた後の分校でのAqoursの6人はそのことを分かり始めているから*3かもしれないし、自分で気づいて欲しいのかもしれない。

浦の星女学院の生徒はファンと重なる。
1期13話「サンシャイン!!」では浦の星女学院の生徒は千歌たちの努力を知り、何か力になりたいと感じている。
劇中歌の「MIRAI TICKET」で「10!」と叫ぶのは浦の星女学院の生徒で、まさに劇中の浦の星女学院の生徒はAqoursの魅力を理解し、主体的に参加するもの」である。
その意味においては浦の星女学院の生徒と現実のファンは"同質*4"だと言える。

映画で最後のライブは沼津駅前で静真高校の生徒と父兄が観客として行われた。
②たくさんの応援してくれてる人に支えられながら3年生の旅立ちと1,2年生の始まりの決意を口にし歌った曲。
物語としても③外部者だった月をはじめとする静真高校の関係者が②ファンとなっていくところで終わる。μ'sのスクールアイドルが根付くように「SUNNY DAY SONG」をまだ見ぬスクールアイドルに向けて歌ったということと比べてもラブライブサンシャインという作品はとても"ミクロ"だと思う。


少し本題から逸れたが、何が言いたいかというと「Next SPARKLING!!」において9人で歌うのは9人であることを内側の人間である①Aqours、②浦の星女学院の生徒(ファン)が当たり前と思っているからそれで良いと思っているということである。

4th LIVEの「想いよひとつになれ」だってそうだ。「シンクロライブ」の大原則沿って見れば8人で歌う曲を9人で歌うなんて有り得ない。だけど、9人で歌うことが本来のあるべき姿だから9人で歌うことを選んだ。これは①Aqours自身の話であるが、②ファンもこのことを受け入れた。多分文句を言う人はほとんどいないだろう。なぜなら1stでやりづらくなってしまった過去やアニメのストーリーを知っていて、その封印を何とか解きたいと願っていたから。③ファンではない一般の人には理解できないかもしれない。アニメと同じという意味でのシンクロが正しさか、本当にその正しさが必要か、という今までのライブを覆す問題提起をしたライブだった。

「Next SPARKLING!!」でも同じことが言える。
何もアニメそのものになることが正史ではない。5thで「Next SPARKLING!!」がどう披露されるか想像はつかないが、9人で歌うことを②ファンが認める、それでいいじゃないかと思う。



さあ 幕が上がったら ずっと歌っていたいね
「僕らの走ってきた道は...」より


私個人で映画で1番好きな曲の中で、映画中で1,2を争うくらい好きなシーンだ。「ずっと」。
これもまた一つの「永遠」で、ありえない願いだ。だけどそこに確かにあるのは「ずっと歌っていたい(今の)気持ち」である。
ラブライブサンシャインという舞台の幕は(映画の時制を順通りと仮定すれば*5)「WONDERFUL STORIES」で下がり、「僕らの走ってきた道は...」以降映画ではずっと上がったままである。
終わらないんだ、またそんな気持ちにさせられる。

物事には終わりがつきものである。舞台の幕はいつか下がるし、Aqoursだって終わる。私には今その覚悟はとてもできない。これからもその時が来るまで、覚悟はできないのだろうと思う。きっと「次で終わるのかも」と思ったほうが気持ちが楽で賢くて合理的なのだろう。けれど、どんなに愚かで非合理的でも私は構わないと思っている。
永遠とまでは言えなくても、どんな形でもいい。これからも力を貰いたいし、続いて欲しいのである。

やはり私が言いたいことって簡単に言えばそういうことだ。
長々と理屈を述べたが、要はAqoursに続いて欲しいということ。5th、そしてこれからもよろしくねということ。
そういうシンプルなお話でした。

5th LIVEまであと1日(いや、あと1日か...)。我々がAqoursに見せてくれるものは何なのか。凄く楽しみだ。

終わらない夢見よう。

*1:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181228-00010001-bfj-ent&p=2

*2:本筋から逸れてしまうのでこの備考のみに留めるが1期7話で寄せられる視聴者の好意的なコメントが「ランタンが綺麗」であり、Aqours自身のパフォーマンスが評価されていない点は面白いなと感じている

*3:ルビィの「できる!」やその直後の千歌の家での千歌と梨子の会話から読み取れる

*4:同じとは言わないが…

*5:なお、筆者は時制が順通りかどうかについて(というより「WONDERFUL STORIES」、「僕らの走ってきた道は…」はそもそも現実の時系列の中に入っているのかについて)はやや懐疑的であるがいったん置いておく。とはいえ「WONDERFUL STORIES」より「僕らの走ってきた道は…」が先だとは考えられなず、現実の時系列にあてはまらないにしても、そこには明確な不等号が存在するのでこの仮定が実質的に誤りという訳ではない。